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【2024/05/17 14:15 】 |
ハネムーン(honey moon)

花の蜜(みつ)は60%が水分だという。
ミツバチはこの蜜を蜜房に集める。それから時間をかけて自分の体温で温めて水分が20%になるまで蒸発させる。こうして出来上がった蜂蜜を後々の食糧としてたくわえておくために、ミツバチは甘蓋(あまぶた)という蓋をする。この蓋を取り払い、垂らしたものがハニー(honey)という名の純粋蜂蜜だ。
 
 “ 寒風をついて蜜房を裂く ”と古い文献にいう。昔の日本では蜂蜜の採取は年に一回行われた。いまは蜜房が甘蓋で覆われれば採取している。その時にミツバチの餌として三分の一ほどは蜜房を残しておく。
 
古座川の奥の大甲(たいこう)で採れた蜂蜜が東京の市場に運ばれ三越で売られた。もちろん船便で運んだ。その蜂蜜が「絶品だ」との評価をうけたのは遠く大正の御世のことだ。
 
 新婚の数ヶ月、花婿(はなむこ)に蜂蜜酒を飲ませ精力をつけさせる。この古代ゲルマン人の素晴らしい習慣をHoney moon (ハネムーン)という。

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【2011/03/09 23:39 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
71人
  71人。
 ある医療機関の調べで、お金がないために医療が受けられずに昨年死亡した人の数だという。一つの医療機関の調べでこうだから実際はもっともっと多いと見るべきだろう。
 
 やっぱりなあって思ったのは、71人のうちの70%が50~60代の男性で、職がないかあっても非正規の仕事の人たちだとか。なかには32歳の若者もいたとのこと。みんな国保だが高い税を払えず保険証を取り上げられている。
 
 「資格証明書」というのをくれるらしいが、これがあっても医者に診てもらったらいったんは窓口で全額払わないといけない。しかし、そのおカネを払えるくらいならみんな苦労はしない。支払う現金がないから医者にゆくのを我慢し手遅れになっている。

 日本は国民皆保険の国としてヨーロッパの国々と肩を並べて有名だ。だけどいま、失業者が多く、また非正規労働が急増した結果、医療を受けられずに死亡に至るケースが急増しているという。
 ヨーロッパで数年暮らしていた友人に聞くと、「ヨーロッパでは考えられん。そんなん皆保険ていわん」と断じた。

 この国は10年間も働く国民の給料が下がりつづけている世界でたった一つの国だ。和歌山県は、戦前は平均寿命が全国最長の県だったが、戦後、一転して最短に転落した県だ。
【2011/03/08 10:24 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
啄木と節子

 
 子を背負い
 雪の吹き入る停車場に
   われ見送りし妻の眉かな

 啄木は釧路で芸者遊びに明け暮れていた。この試練を乗りこえてこそ真の夫婦になれる・・・と手紙を送る妻の節子。世間を知らず、しかし気位だけは高く、世に出ることしか頭になかった啄木。それを支えた妻の節子。ああ、哀しきは明治の女というべきか。

 啄木は、日記は燃やせと言い残して死んだ。が、節子はそれを後世に残した。節子には読むに耐えない内容の日記だが、のちのちの研究者に彼の才能を評価してもらおうとの気持ちが働いたのだろう。愛を信じるとか、口にするのはたやすいが、こんなことを出来る人はそういない。

 澤地久枝さんが金田一京介の『石川啄木』に、友人としての気づかいがあって手心が加えられていると書いている。それはそうなんだろうけど、「石川君」と呼びかけるように書かれた文章には味わいがある。澤地さんは、言葉の奥にある真実を見ることに長けている。

 日記では妻に詫びながら、現実にはねぎらいの一言もかけなかった夫・啄木。それが明治の男なんだという人もいる。それはともかく、あんなに文才には長けていても実生活では器用という訳にはいかなかったんだと思う。啄木と節子に会ってみたい。
  
 
 
 
    
【2011/03/05 10:55 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
いまそかり
  ふと耳にした。
  「耳障りのいいことを言っている」とTVでアナウンサー。この間違ったことばの使い方をよく耳にする。ことば使いのプロがいったので耳障りだった。「耳障り」というのは聞いていて不快になるという意味だから、「耳障りのいい」という言い方はない。「肌触りがいい」というのなら分かるが。
 
まあ、そんなことにいちいち目くじらを立てなくても・・・。ん? 「目くじら」? くじらは海の中にいるのになんでこんなところに出てくるんだ? そう思って調べてみた。「目くじら」の「くじら」は海の「くじら」ではなかった。昔、目尻(めじり)のことを「目くじり」といい、それがだんだん訛って「目くじら」になったという。そこから、目尻を立てて怒ることを「目くじらを立てる」と、まあそんな風に使うようになったんだそうだ。
 
ことのついでに、前々からの疑問を解こうと思って調べてみた。例の「あり おり はべり いまそかり」だ。みんなが知ってる、語尾が「り」で終わる例のラ行変格活用だ。あり(有り)おり(居り)はべり(侍り)までは知っているが、その次の「いまそかり」ってなんだ? 調べてみて分かりました。知らない人はいっかい調べてみてください。
 
 
京都での大学時代、最初に下宿したうちのお爺さんが「部屋にいハルかと思って」と言いながらドアをノックしてきた。この京都弁は実に重宝なことばだ。「何してはるん?」とか「なに食べてはるん?」とか「どこ見てはるん?」・・・。最後に「はる」をつけたら大体は尊敬語に聞こえるから不思議だ。地方のことばは実に味がある。
 「〇〇ちゃんあるかあ?」 人を物みたいにいうなというが、ちょっと待った。「ある」ということばはなかなかおもむきのあることばなのだ。

【2011/03/01 11:15 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
旬の味

 ぶり大根である。
 日曜の昼前、スーパーの鮮魚コーナーで旬の魚を見つけた。ぶりアラだ。「よし!ぶり大根を作ろう」。で、大根は80円だった。これまでの経験からこの料理はぶりの生臭さをどうカットするかがポイントだ。そこでぶりアラに塩をまぶして30分ほど置く。まぶす塩の量が大事で多すぎても少なすぎてもダメだ。これはもう経験しかない。

 大根はひと口大よりも少し大きく切り皮をむく。皮をむかない人もいるが、それは好みだ。これが済めば、沸騰した湯にぶりアラをすべて入れるとすぐに表面が白くなる。10秒ほどでサッと湯から取り出し水をかける。これで生臭さがほとんど取れる。

 あとは簡単だ。鍋に切った大根を並べその上にさっきのぶりアラを乗せる。醤油、砂糖、酒を入れ、肩までつかる程度に湯をそそぎ強火で煮る。煮立ったら中火から弱火にして小一時間煮つづける。

 
 ちょうど、職場の女性が畑で作ったというほうれん草を持っていたので少し頂いて添えてみた。料理はセンス、だと思っている。これは難しくないので一度機会があれば試してみては如何かだろうか。 

【2011/02/27 20:11 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
女子割礼

                                                                                                                     
  ワリス・ディリー。
 彼女が5歳のときに受けた割礼の種類はWHOでいう「陰部封鎖」。麻酔もない、クリトリスを切りとり陰部を縫合して小さな穴を二つ開ける。一つは排尿用で、もう一つは月経用。ソマリア(だけではないが)ではこの割礼を受けないと結婚できない。この蛮行はいまもなくなっていないという。

 13歳になった彼女ワリスはまだ少女。ラクダ5頭との交換のために60歳の男と結婚させられそうになり、父親の追跡をふりきって首都モガディシュに住む母の妹をめざし数百キロの砂漠を1人で逃げ切る。著書『砂漠の女ディリー』ではこの辺の描写が実にリアルで迫力に満ちている。

 数年後、行きついたロンドンでマクドナルドの店員として働いているとき、写真家ドノヴァンに見いだされモデルとなる。この有名な写真家は街角で見かけた彼女の横顔を撮りたくて2年間もワリスを探し求めていた。それから彼女のモデルとしての道が始まった。ニューヨークに移りシンディ・クロフォード、ナオミ・キャンベル、クラウディア・シファーらと仕事をともにしスーパーモデルに昇りつめる。

 
 ワリスはスーパーモデルとして絶頂期にあった1997年、5歳のときに体験した女性器切除を雑誌『マリ・クレール』に初めて明かした。それは大反響を呼んだ。その後、彼女は割礼廃止のために国連大使に任命された。
 
 13歳で家を飛び出してから10数年が過ぎていた。彼女は出生地であるソマリアの砂漠に帰り母親を探しつづけてやっと再会を果たす。 『砂漠の女ディリー』は発表するやいなや世界中でベストセラーとなる。 『ザ! 世界仰天ニュース』でも彼女の割礼を取り上げたがあまりにもショッキングなため詳細は省かれたという。彼女はいま夫と一男との3人暮らし。モデルの仕事を続けながら割礼廃絶のための活動をつづけている。

【2011/02/27 15:40 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
禁煙道


  その女性の医師は「いまやめないと10年後に必ず脳梗塞がきます」と、こともなげに言った。

  日々の暮らしに「禁煙」という概念を持ち込んだのは彼女のこのひとことだった。それから幾たび「禁煙」にチャレンジしたことだろう。が、ことごとく失敗した。知り合いのS薬局で禁煙パッチを求めたのは、医師のあのひとことから数えてもう5年が過ぎていた。

 目覚めとともに、いざ、禁煙パッチを肩に貼った。すぐに「かゆみ」がきた。が、それは5分ほどで消えた。パッチから体内にニコチンが強烈に送り込まれているのか、吸いたい気分にならない。「へえー、けっこう効くなあ」。パッチ会社のHPにアクセスし登録すると、携帯電話に「励ましメール」が入ってきた。一日中、タバコを吸いたいという気が起きない。夜10時、シャワーを浴びパッチをはがした。この日、5回「励ましメール」がきた。禁煙を試みている仲間の掲示板もある。至れり尽くせりだ。

 段々とバッチを小さくしながら4週間が過ぎた。いよいよパッチを全面的にはずす日がきた。自分の意志のみでの禁煙。これまではパッチからニコチンを吸収していたので正確にはタバコから100%解放されてはいなかった。吸いたい気持ちが起きてくるのではという不安があったが、半日過ぎても夜になってもその気持ちが起きない。
 
 異変は夜中に起きた。急に気分が悪くなり目が覚めた。2時だ。全身からあぶら汗が吹き出してくる。トイレに行こうとしたが立てない。明らかに食中毒の症状だ。「けど待てよ。なんかおかしな物を食べたやろか?」。食あたりするようなものは何も口にしていない。呼吸もできないほどの苦しさが襲ってくる。這ってトイレに行った。どれくらいの間トイレに座っていたんだろう。壁に手をつきながらトイレを出て鏡にうつった顔を見てビックリした。まるで血の気がなく顔面蒼白だ。その場にうずくまったまま10分位が過ぎただろうか。すると、こんどは急速に気分が回復してきたではないか。

「待てよ、これは食中毒と違うなあ・・・」 翌朝、知り合いの看護師さんに電話し夜中の急変について説明した。彼女は「どうも精神的なもんみたいやなあ。なんか変わったことなかったあ?」と聞く。変わったこと? 「禁煙してるくらいや」というと、「ええっ、あなたが禁煙?日に70本も吸ってたのに?」  
 それからこう言った。
  「それって禁断症状やわ、あははは・・・」



【2011/02/26 15:15 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
神倉さん
  こあいに急な石段はそうないなあ・・・
 と、思わずそんなことを口にするほどヒーヒーと声をあげて登った。勾配の角度は45度を優に超えて垂直、といえば大袈裟だが体感的にはそれほどの急勾配で怖い。休みながらでないととても一気には登れない。平日の午後だったので行き交う人はいないだろうと思ったていたが、何人もの人たちとすれ違った。下ってくる女性に「あのお、まだ大分あるんですか」と声をかけたら、「もうすぐそこですよ」と笑顔が返ってきた。

 長い間、一度登ってみたいと思っていた神倉神社にやっと登った。頂上の社殿の上に御神体だというゴトビキ(ガマガエル)の形をした岩があった。ゴトビキを知らない人はいないだろう。大形で褐色のあの乾いた皮膚。頭は大きく危険なときは体から毒の白い液体を出す。子どもの頃、素手で触ろうと思わなかったあのゴトビキだ。

 その巨岩を見ながら疑問が生じた。なぜゴトビキの形をした岩をご神体として祀っているのか? そこで、市役所に聞くと「あれはご神体ですが祀っているのは高倉下命(タカクラジノミコト)と天照大神(アマテラスオオミカミ)です。ゴトビキ岩はもともとそこにあったんです」との説明だった。 

 晴天。眼下には新宮の街並み、その先に太平洋、左には熊野川と三重県紀宝町鵜殿村が一望できる。次は「お灯まつり」を見てみたい。
 
【2011/02/25 19:24 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
あっぱれ!

この町で栽培されている完熟ミニトマトは甘みがあって本当に美味しい。よく知り合いに頂いて食べるが実にうまい。しかし、それよりなお美味しいのはここで採れるスイカだ。印南のスイカを食べたら他所のは食べられないほどだ。

この町とは人口8600人の印南町。紀伊水道に面した農業と漁業の町だ。この印南町でこの4月から18歳以下の医療費が無料になる。18歳以下は人口の23%、つまり住民の4~5人に1人ということになる。もちろん県内では初の試みだし、全国的にも市レベルでは高梁市だけだし町村レベルでもあと1~2あるくらいだろう。 町長さんは「子育て世代に優しい町であることをアピールし若者の定住につなげたい」という。 “あっぱれ!” だ。

医療費。和歌山県では0歳から小学校入学までは県と市町村が分担して負担し本人は無料になっているが、小学生以上は自治体によって違う。最近は中学校卒業までの医療費を無料にするところが少しづつ広がっているが、高校卒業まで無料にしたのはここが初めてだ。

知り合いの医師がいっていた。「親の収入が激減している家庭の子どもが増えてきた。お金がなくて必要な医療を子どもに出来ない場合もよくある。公費でみてくれればわれわれ医者も安心だ」。
【2011/02/23 18:47 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
日本最短の川
 
 晩冬のこの日ここを訪ねた。

 川の名前はぶつぶつ川。泉がふつふつと湧き出していることに由来しているそうだ。意表をついた名で覚えやすい。正面からの写真で距離が分かりにくいが13・5メートル。日本で一番短い川だ。小川だがこれでもれっきとした二級河川。和歌山県東牟婁郡那智勝浦町粉白というところにある。

 ちょうど昼前だったからか、すぐ下流で野菜を洗っている女性がいた。「ほんまにきれいな水やねえ」と声をかけると、顔をあげてにっこりし「きれいでしょう、水道がなくてもいいんですよ」という。

  きれいなぶつぶつ川を守ろうと地元の人たちもご苦労しているようで、まわりにはごみひとつ落ちていない。正面の石垣の下あたりから清水が沸いている。民家の前の道端で地元のおじさん数人がなにやら談笑している。その声が辺りに流れるほど静かな時間がそこにあった。

 日本最短の川。なにかの話の種に一度訪ねて現場を見られては如何だろうか。くるりと背を反せば数メートル先に遠浅の浜が美しい。その向こうに太平洋が静かだった。
 

 
【2011/02/19 17:46 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
野生のシカ
最近は山道でほんとによくシカやサルと出会う。山道といってもれっきとした国道だ。それに遭遇しても瞬間に山に隠れるということもしない。昔はめったに里には下りて来なかったものだ。小学校の頃、近くの広い川原にシカが現われ珍しいからみんなでワイワイ言いながら眺めていたことを覚えている。当時の山はいまのように荒れていなかった。植林された山ではあったが手入れが行き届き、山が山として果たすべき役割をそれなりに果たしていたものだ。

  そのむかし、国策でみんなが山に針葉樹を植えた。その後、これまた国策で安い外国材の輸入が自由化された。日本材の値が下がり、植えた樹が放置されるようになった。枝打ちも間伐もされないため密集して昼なお暗く地面に陽も射さない針葉樹林。土地はやせてゆき大雨がふれば土砂崩れの原因にもなっている。
  これまで里ではあまり見かけなかった野鳥がこの頃よく自宅の庭の樹にとまって鳴いている。それどころか小さな野鳥を手でつかめるという信じられないようなことも起きている。 嘘でしょう? って、知らない人はきっというだろう。白菜の畑に野鳥の群がやってきて夢中で食べているのを手でつかんだという話はいくつも聞いた。

   山間に住む知り合いの話だが、冬にもかかわらず井戸の水位が低い。山に吐き出す水がないというのだ。ある種類の樹が枯れかけているのも水不足のためらしい。樹が枯れれば山の保水力はいっそうなくなるという。山を追われた鳥やシカたちはどこに行くのだろう。

【2011/02/17 11:10 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
あおさ
  
 お祖母ちゃんは漁師の娘だった。
 まだ小学校にも行ってなかった小さい頃、お祖母ちゃんが実家の前の海でひとり小船に乗って器用にろ(艪)をあやつっているのを見たことがある。自由自在に操るというのはああいうことをいうのだろう。岩場の上からその姿をずっと眺めていたものだ。

 そのお祖母ちゃんがこの季節になるとよく食卓に乗せたのがあおさと岩牡蠣の煮たおかずだった。その量がまた半端じゃなかった。漁師の娘にはあおさを採るのも岩牡蠣を打つ(採る)のも造作のないことだった。よく海辺に連れていってもらい岩牡蠣を打つ様子を見せてもらったがその早業たるやまるで職人の技だ。とても真似のできたもんじゃない。

 それはいいが、まだ小さい頃でこのあおさと岩牡蠣の煮つけの美味しさを理解できなかった。極力食べないようにしたものだったがいま食べようとしても手に入るものではない。贅沢な食材だったのだ。
 お祖母ちゃんがよく食卓に乗せたこの季節のもう一つのおかずはわらび(蕨)の煮つけだ。農家のこととて畑や田んぼのそこここで採れたのだがこれも苦手だった。 

 考えてみればその頃に食べていた物はほとんどすべてといっていいほど身近にあったものだ。お祖母ちゃんは油はなたねから作ったし、味噌も醤油も自分で作った。その様子をそばでじっと見ていたものだったが、ふとあの頃に戻りたいと思うのはどうしてだろう。
【2011/02/12 14:50 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
文は人
 
 あの芥川龍之介が「怕(こわ)い作家だ」といったその相手は志賀直哉だ。
  志賀直哉のような文章を書きたくても自分は書けないと、彼は師であった夏目漱石にもらした。それに応えた漱石の言い分は、「文章を書こうと思わずに、思うままに書くからああいう風に書けるんだろう。俺もああいう風には書けないよ」と。

 「文は人なり」とまあこれはフランス人の言葉らしいが、よくいう。龍之介の文章というのは磨きぬかれたことばというか考えぬかれた構成というか、その清新さを見せつけ世を風靡した。絢爛(けんらん)豪華な修飾語をこれでもかと駆使する作風は漱石門下で抜きん出ていた。まあ、ありていにいま風にいうとマニヤック、要するに凝り性だ。何事によらず度をすぎるというのはよくない。時代は下るが、三島由紀夫の文章も龍之介ほどではないにしろマニヤックだ。

 志賀直哉はこれとは対極にある。自然に美しい文章なのだ。「小説の神様」とはだれが名づけたのか知らないが、彼の文章はその後の文学界につよい影響を与えた。要するにみんな志賀直哉に憧れたのだ。追っかけをする人もいたくらいだ。川端康成の文章の美しさなども志賀の影響を受けているといっていい。

 志賀の影響は文学の世界だけでなく国語教育のあり方にも及んだことはよく知られている。学校の作文では「簡潔に、ありのままに、思ったことを書く」のがいいとされているようだ。だけどこれがどれほど難しいことか、一度試してごらんなさい。
 
 
【2011/02/11 09:54 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
彼の演説
 「僕は彼の演説が好きだった」
 「僕」とは戦前の作家・武田麟太郎で「彼」とは小林多喜二のことである。武田はいう。「はじめのうちは、あのう、あのう、あのうという間投詞がはさまって口ごもり勝ちだが、熱をおびはじめると北海道訛りのとれぬ言葉がいつ止むとも知れず流れ出す。すると聴衆たちはやや酔い心地でそれに耳をすます」。

この武田のことばから、多喜二の演説がどのようなものだったのかが少し分かるような気がする。聴かせる演説というものは一日にしてなるものではない。多喜二の場合、正確にいうと演説ではなく文芸についての講演なんだが、熱するうちに演説に変わったんだろう。多喜二らしいと思う。
 もう少し武田から引用する。「その興奮が聴衆にうつってしまい、だれもかれも頬がほてる思いで彼の演説が終わると何故とはなしに熱い息を吐くのであった」―。

多喜二にはじめて会った立野信之はこう書いている。「洋服はボロだし、股の間に大きな色の違ったツギのあたったズボンをはいて髪の毛はボサボサで、色白の長身どころか陽にやけた小男だった。そして秋田訛りのガアガア声でしきりに喋った。こんな貧弱な小男によくあんな大作ができたもんだ」。 

  徳永直も初対面で同じことを感じたようで、「君は偽者じゃないのか?」と聞いたという話さえ残っている。多喜二の演説はスマートさなどとは程遠いもので熱いものだったんだろうと想像する。
  多喜二に一度逢ってみたい。
 
【2011/02/09 16:55 】 | 未選択 | 有り難いご意見(1) | トラックバック()
紀州鉱山の町

紀伊半島の南端にある紀和町。
この町にかつて日本屈指の銅の鉱山があったことを知ったのは最近だ。現地にある鉱山資料館を訪ねてみた。この鉱山の歴史は古く奈良時代にまでさかのぼる。昭和になって石原産業という企業がこの地を買収したが、この企業はマレーシアでの鉱山開発を目的にできた企業だ。

 ここの地底には多数の坑道が網目状に張りめぐらされ、最も深いところは地下420メートルで坑道の全長は330キロ。実に東京―名古屋間に匹敵する長さだという。鉱山は1978年に閉山したがトロッコの一部が近くの湯の口温泉で観光用に使われ一般の人が乗れるように走っている。

この紀州鉱山では強制的に連行されてきた朝鮮の民衆1400人が、1940年から敗戦まで鉱石の採掘など苛酷な労働に従事させられた。1941年には朝鮮人130人がコメの増配を求めてストライキを行ったという記録がある。

 敗戦までの5年間でここで死亡した朝鮮人は35人という調査があるが、鉱山資料館にはその事実はおろか朝鮮人が働いていたことすら示されていない。マレー半島で捕虜になり連行されてきたイギリス人の犠牲者については展示コーナーが設けられているし、彼らの墓地は熊野市の指定文化財にもなっているというのに、だ。
朝鮮への植民地支配が生み出した過去はこの紀州鉱山でもまだ清算されていない。

 ほとんど人通りのない資料館前の道から北山川方面に車で走ったとき、目の前を小さなイタチが横切って山に消えた。
 
【2011/02/08 10:38 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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