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あの芥川龍之介が「怕(こわ)い作家だ」といったその相手は志賀直哉だ。
志賀直哉のような文章を書きたくても自分は書けないと、彼は師であった夏目漱石にもらした。それに応えた漱石の言い分は、「文章を書こうと思わずに、思うままに書くからああいう風に書けるんだろう。俺もああいう風には書けないよ」と。 「文は人なり」とまあこれはフランス人の言葉らしいが、よくいう。龍之介の文章というのは磨きぬかれたことばというか考えぬかれた構成というか、その清新さを見せつけ世を風靡した。絢爛(けんらん)豪華な修飾語をこれでもかと駆使する作風は漱石門下で抜きん出ていた。まあ、ありていにいま風にいうとマニヤック、要するに凝り性だ。何事によらず度をすぎるというのはよくない。時代は下るが、三島由紀夫の文章も龍之介ほどではないにしろマニヤックだ。
志賀直哉はこれとは対極にある。自然に美しい文章なのだ。「小説の神様」とはだれが名づけたのか知らないが、彼の文章はその後の文学界につよい影響を与えた。要するにみんな志賀直哉に憧れたのだ。追っかけをする人もいたくらいだ。川端康成の文章の美しさなども志賀の影響を受けているといっていい。 志賀の影響は文学の世界だけでなく国語教育のあり方にも及んだことはよく知られている。学校の作文では「簡潔に、ありのままに、思ったことを書く」のがいいとされているようだ。だけどこれがどれほど難しいことか、一度試してごらんなさい。 PR |
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