
紀伊半島の南端にある紀和町。
この町にかつて日本屈指の銅の鉱山があったことを知ったのは最近だ。現地にある鉱山資料館を訪ねてみた。この鉱山の歴史は古く奈良時代にまでさかのぼる。昭和になって石原産業という企業がこの地を買収したが、この企業はマレーシアでの鉱山開発を目的にできた企業だ。
ここの地底には多数の坑道が網目状に張りめぐらされ、最も深いところは地下420メートルで坑道の全長は330キロ。実に東京―名古屋間に匹敵する長さだという。鉱山は1978年に閉山したがトロッコの一部が近くの湯の口温泉で観光用に使われ一般の人が乗れるように走っている。
この紀州鉱山では強制的に連行されてきた朝鮮の民衆1400人が、1940年から敗戦まで鉱石の採掘など苛酷な労働に従事させられた。1941年には朝鮮人130人がコメの増配を求めてストライキを行ったという記録がある。
敗戦までの5年間でここで死亡した朝鮮人は35人という調査があるが、鉱山資料館にはその事実はおろか朝鮮人が働いていたことすら示されていない。マレー半島で捕虜になり連行されてきたイギリス人の犠牲者については展示コーナーが設けられているし、彼らの墓地は熊野市の指定文化財にもなっているというのに、だ。朝鮮への植民地支配が生み出した過去はこの紀州鉱山でもまだ清算されていない。
ほとんど人通りのない資料館前の道から北山川方面に車で走ったとき、目の前を小さなイタチが横切って山に消えた。
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