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71人。
ある医療機関の調べで、お金がないために医療が受けられずに昨年死亡した人の数だという。一つの医療機関の調べでこうだから実際はもっともっと多いと見るべきだろう。
やっぱりなあって思ったのは、71人のうちの70%が50~60代の男性で、職がないかあっても非正規の仕事の人たちだとか。なかには32歳の若者もいたとのこと。みんな国保だが高い税を払えず保険証を取り上げられている。
「資格証明書」というのをくれるらしいが、これがあっても医者に診てもらったらいったんは窓口で全額払わないといけない。しかし、そのおカネを払えるくらいならみんな苦労はしない。支払う現金がないから医者にゆくのを我慢し手遅れになっている。 日本は国民皆保険の国としてヨーロッパの国々と肩を並べて有名だ。だけどいま、失業者が多く、また非正規労働が急増した結果、医療を受けられずに死亡に至るケースが急増しているという。 ヨーロッパで数年暮らしていた友人に聞くと、「ヨーロッパでは考えられん。そんなん皆保険ていわん」と断じた。 この国は10年間も働く国民の給料が下がりつづけている世界でたった一つの国だ。和歌山県は、戦前は平均寿命が全国最長の県だったが、戦後、一転して最短に転落した県だ。 |
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子を背負い 雪の吹き入る停車場に われ見送りし妻の眉かな 啄木は釧路で芸者遊びに明け暮れていた。この試練を乗りこえてこそ真の夫婦になれる・・・と手紙を送る妻の節子。世間を知らず、しかし気位だけは高く、世に出ることしか頭になかった啄木。それを支えた妻の節子。ああ、哀しきは明治の女というべきか。 啄木は、日記は燃やせと言い残して死んだ。が、節子はそれを後世に残した。節子には読むに耐えない内容の日記だが、のちのちの研究者に彼の才能を評価してもらおうとの気持ちが働いたのだろう。愛を信じるとか、口にするのはたやすいが、こんなことを出来る人はそういない。 澤地久枝さんが金田一京介の『石川啄木』に、友人としての気づかいがあって手心が加えられていると書いている。それはそうなんだろうけど、「石川君」と呼びかけるように書かれた文章には味わいがある。澤地さんは、言葉の奥にある真実を見ることに長けている。 日記では妻に詫びながら、現実にはねぎらいの一言もかけなかった夫・啄木。それが明治の男なんだという人もいる。それはともかく、あんなに文才には長けていても実生活では器用という訳にはいかなかったんだと思う。啄木と節子に会ってみたい。 |
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あの芥川龍之介が「怕(こわ)い作家だ」といったその相手は志賀直哉だ。
志賀直哉のような文章を書きたくても自分は書けないと、彼は師であった夏目漱石にもらした。それに応えた漱石の言い分は、「文章を書こうと思わずに、思うままに書くからああいう風に書けるんだろう。俺もああいう風には書けないよ」と。 「文は人なり」とまあこれはフランス人の言葉らしいが、よくいう。龍之介の文章というのは磨きぬかれたことばというか考えぬかれた構成というか、その清新さを見せつけ世を風靡した。絢爛(けんらん)豪華な修飾語をこれでもかと駆使する作風は漱石門下で抜きん出ていた。まあ、ありていにいま風にいうとマニヤック、要するに凝り性だ。何事によらず度をすぎるというのはよくない。時代は下るが、三島由紀夫の文章も龍之介ほどではないにしろマニヤックだ。
志賀直哉はこれとは対極にある。自然に美しい文章なのだ。「小説の神様」とはだれが名づけたのか知らないが、彼の文章はその後の文学界につよい影響を与えた。要するにみんな志賀直哉に憧れたのだ。追っかけをする人もいたくらいだ。川端康成の文章の美しさなども志賀の影響を受けているといっていい。 志賀の影響は文学の世界だけでなく国語教育のあり方にも及んだことはよく知られている。学校の作文では「簡潔に、ありのままに、思ったことを書く」のがいいとされているようだ。だけどこれがどれほど難しいことか、一度試してごらんなさい。 |
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「僕は彼の演説が好きだった」
「僕」とは戦前の作家・武田麟太郎で「彼」とは小林多喜二のことである。武田はいう。「はじめのうちは、あのう、あのう、あのうという間投詞がはさまって口ごもり勝ちだが、熱をおびはじめると北海道訛りのとれぬ言葉がいつ止むとも知れず流れ出す。すると聴衆たちはやや酔い心地でそれに耳をすます」。 この武田のことばから、多喜二の演説がどのようなものだったのかが少し分かるような気がする。聴かせる演説というものは一日にしてなるものではない。多喜二の場合、正確にいうと演説ではなく文芸についての講演なんだが、熱するうちに演説に変わったんだろう。多喜二らしいと思う。
もう少し武田から引用する。「その興奮が聴衆にうつってしまい、だれもかれも頬がほてる思いで彼の演説が終わると何故とはなしに熱い息を吐くのであった」―。 多喜二にはじめて会った立野信之はこう書いている。「洋服はボロだし、股の間に大きな色の違ったツギのあたったズボンをはいて髪の毛はボサボサで、色白の長身どころか陽にやけた小男だった。そして秋田訛りのガアガア声でしきりに喋った。こんな貧弱な小男によくあんな大作ができたもんだ」。
徳永直も初対面で同じことを感じたようで、「君は偽者じゃないのか?」と聞いたという話さえ残っている。多喜二の演説はスマートさなどとは程遠いもので熱いものだったんだろうと想像する。 多喜二に一度逢ってみたい。 |
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