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【2025/05/14 23:58 】 |
遠い日のつり橋
 
 このつり橋を二人で渡ったことがある。
  もう秋が深く風が冷たかった。「夏に来てここから川に飛び込もか」というと、「いいよお」と語尾をすこし上げた返事が返ってきた。「夏ならもっと水あるやろね」と真顔で聞いてきた。橋の真ん中あたりで手をつないだときの会話だったが、いまも消えずに耳の奥に残っている。

 この辺りにはこんな風なつり橋があっちこっちの谷によくかかっている。かつては暮らしに欠かせない道だったが、集落がそっくりそそのまま消えてしまったいまでは行き交う人もほとんどない。猪を撃つ猟師や登山で山をゆく人たちや、あるいは山の仕事をする人たちがたまに通るだけなんだろう。

 山々には常緑の広葉樹が生い茂っている。野生の動物や鳥の鳴き声がどこからともなく聞こえてきては消える。ふと、下の谷川の川原におりて透き通った流れに手を入れてみたくなった。木々が生い茂り、枯れ枝に引っかかりながら石ころと砂利の川原におりた。あの日も、二人は透き通った流れに手を入れた。「冷っこいわあ」 「飲めるやろか」。水が流れる音に二人の声も流れていった。

 見上げると、つり橋はけっこう高い。「あがな高さから飛びおりるらて出来るもんか」と思わずつぶやいた。遠い日のつり橋がすぐそこにあった。
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【2011/02/06 20:03 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
まっ白浜

  まっ白浜である。
  0年代から70年代にかけて白浜は開発ラッシュだった。古くから続いてきた明媚な風景が急速に形を変えていった。山が削りとられ海が埋め立てられ畑がつぶされていった。そのあとにホテルの高いビルが建てられ舗装された道路が敷かれた。この時期に日本のいたるところでくり広げられた自然破壊の開発の波に白浜も洗われていった。白浜町議会でも過度の開発に異議をとなえる人たちもいたし住民運動も起きたが、国も県も開発をあと押しした。しばらくすると土砂の流出や松林の荒れが起き白浜の海はもとの海ではなくなった。こうして微妙なバランスによって天然の白い砂が生成されていたメカニズムが壊された。

 いま、この白良浜はオーストラリアからの白砂の輸入によってかろうじてその白さが保たれている。沖合いにコンクリートを沈め過度の荒波が白砂を運び去らないように工夫もされている。専門家の援助もうけ考えられる限りの手は打っているのだが、もうあの頃の天然の白砂を生成することは望めない。さらに、こののち地球温暖化や異常気象の連鎖がいったいどんな環境の変化を引き起こすかはだれにも分からない。

 風莫(かざなし)の浜の白波いたづらにここに寄せくる見るひとなしに
 よみ人は人麻呂とも奥麻呂ともいわれている1000年も前の古い万葉の和歌だ。南紀州の海辺はどこも波が荒いが白浜半島の内海は静かな水面だ。ことしもまた多くの観光客がこの海に遊ぶことだろう。
【2011/02/04 11:14 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
日置川

  ダムが上流になければどんなにいいかと思う。

 熊野川もそうだがこの日置川の豊かな流れを見ていてつくづくの実感だ。紀伊半島のどの河川も夏場は鮎つりを楽しむ人たちがそこここに見られるが、きっと同じ思いだろう。ダム建設以外にも悠久の河川の成り立ちを変えたものがある。山の荒れだ。日本の河川は連なる山脈や雑木林など自然の山にその源流があり、雨量のとくに多いこの紀伊半島ではその豊かな水を山々が受けとめ川が成り立ってきた。それはまたそれぞれの河口に豊かな海をつくりだしてきたのである。

 「みどりのコンクリート」ということばを初めて聞いたとき ”なるほど” と納得した。雑木林を壊しそこに人口の植林をすすめた結果、山一面に現われたのは保水作用のないまぎれもないコンクリートだった。植林をするにもルールが必要なのに、ルールのない日本資本主義がわがもの顔で自然を踏みつけにしたのである。

 自然環境の連鎖は微妙なバランスでなりたっていると聞いたことがある。ひとつが壊れればみんなが壊れてゆく。日本のような国土や地形に作るダムと欧米のような国土に作るダムとでは明らかに違いがある。日本ではより神経質な検討が必要だ。日置川でも大雨の増水によるダム放流で何度も災害が起こされてきた。欧米では有害なダムの撤去が行われているという。考え直すべきときがきているようだ。
 
【2011/02/02 16:02 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
松本清張という作家


 いくつかの作品を読んですぐにこの作家が気にいった。

 などというと偉そうに聞こえるが、ほんとに気にいったのである。何がそんなに気にいったのか。俗っぽくいうとこの人は40歳を過ぎてから文壇にデビューした「遅出」の作家だ。彼は10代の頃から文学に没頭していたが、「文学などやっていられない生活で一家が路頭に迷いそうだ。借金取りにせめられる父を見て決心せずにはいられなかった」と、以後20年の長きにわたって文学を捨て家計のための労働に明け暮れるのである。この底辺での経験が清張の文学の底流にある。

 戦後、「国民的な作家」と呼べる人が何人かいるが、松本清張と司馬遼太郎の2人はそこに入るだろう。どちらも大衆的な作品を生みだしたのだが、この二人の作風はまるで違う。司馬の作品は文学を生業(なりわい)とする匂いがする。清張の作品にはそれが感じられない、と思うのは特別な見方だろうか。

 「文学を生業とする匂い」というのは職人技とでもいうのか、物語を創ってゆく知的作業のことである。だが、清張の作品にはそれがない。そこにあるのは時代のもつ矛盾と真剣に向き合い、恵まれず弱い人間がそれでも前に進もうと格闘する姿だ。清張は真剣で、司馬が真剣でないというのではない。

 清張の作品から見えてくるのは、矛盾の多いこの社会の、しかも底辺にあって失望の淵に追いやられてなお希望を求める人間の姿である。柔な文士の多いなかで文学に対するその構え方がすばらしいと思うのだ。(写真・思いがけない雪の朝) 


【2011/01/31 17:34 】 | 未選択 | 有り難いご意見(1) | トラックバック()
みるりいな

 「昨日バリ島から帰ってきたところなんです」と、店に入ると笑顔の奥方がそうおっしゃるではないか。このフットワークの軽さがいい。「泳いできたん?」 「泳ぎました」。遅い正月休み、お若いとはいえ2人の子どもさんを連れての海外旅行はさぞお疲れのことだったろう。

 みるりいな。てっきりフランス語だなと思った。名前の由来を聞いて「ふうん、そうなんかあ」と納得した。それにしても変わった名前だ。「みるりいな」でネット検索したらすぐに出てくる。
 何回か立ち寄るうちにこの若夫妻と親しくなった。写真のようにどちらもちょっと見は大人しい感じに見えるが、ご主人はなかなか気配りがいいし何よりイケメンだ。彼女は彼女で外も内もなかなかチャーミングな奥方だ。しかし2人の魅力は何といってもその明るさと気さくさだろう。ログハウス風のこのカフェレストについ立ち寄ってみたくなるのはなんといってもそのせいである。

 「ここの保育所はゼロ歳からじゃないから」という彼女のそばでお嬢ちゃんが遊んでいる。店内にはよちよち歩きの子どもが自由に遊べるコーナーも設けられている。こんなカフェレストはそうそこらにはない。

 本宮町の請川は新宮への道すがらつい一休みしたくなる場所だ。このみるりいなはちょっと一服するには最適だ。窓の下を流れる熊野川の眺めにひと時を過ごすか、若夫妻との会話にこころを和らげるか、ひとりで食事やコーヒーを楽しむか、いちど立ち寄ってみることをお勧めしたい。
 
【2011/01/29 22:15 】 | 未選択 | 有り難いご意見(1) | トラックバック()
大根おろしと焼きさいら

  直火で焼いたさいらのひらき、どんぶり一杯の大根おろし、それにモズク、ご飯。
 大根おろしは水っ気をとれば美味しいというがそんなことはない。水分いっぱいの大根おろしのほうがずっと美味しいと思う。随分と大人になってから大根おろしが好物になった。どんぶり一杯の大根おろしと焼き魚が一匹。ヘルシーやねとよく言われるが、自分としてはこれで十分だ。

 大根はいまの季節が一番美味しい。写真の大根おろしはもっともポピュラーに出まわっている青首大根で、関東以北で採れるものが美味しいといわれているようだがそんなことはない。この半島の各地で採れる青首大根だって甘みがあってすごく美味しい。醤油を少し落とす人もいるが、なにも入れないそのままの味もいいものだ。

 なぜ焼きさいらに大根おろしがマッチするのかは知らないが、このシンプルな味はなかなか都会では味わえない。そして、さいらは直火で焼かないと美味しくないとこだわっているが、そんな人も多いのではないだろうか。それから、食事というものは食べ過ぎるべきではないと気づいてからこのかた、食は細くをモットーにして堅持している。

 寒い季節である。温暖化で海の環境がすごく変化してきたと漁師のみなさんがいうが、それでもこの半島の周辺の海でこの時期に獲れる魚は特別に美味しいものが多い。久しく口にしていない重さ1貫目くらいのイズスミのすき焼きは生前の親父も大好物だったが、1年のうちでいまの季節だけのあの珍味をぜひことしあたりは食べてみたいと思う。
【2011/01/28 12:37 】 | 未選択 | 有り難いご意見(1) | トラックバック()
中国のメル友
 
 前からメル友の中国青年が留学で日本に来ている。
 彼女は20歳代の半ば。中国の地方の町で生まれ、大学で日本語をマスターして北京の企業で働いていた。その頃から日本に行ってもっと日本語を勉強したいとよくメールに書いていた。しばらくメールが途切れていたが、久しぶりに先日メールがあり、いま東京の大学にいるとのことである。大学での勉強のほかセブイレブンでバイトを始めたとのこと。来日して3ヶ月で日本の生活には慣れたが、日本語の微妙な意味が分からず心細いときがあると書いている。

  その彼女が日本の印象について書いている。日本に来てさまざまな人に出会った。大学の先生はまだ若いのに配慮のある人で優しいという。アルバイト先の働く仲間たちも親切にしてくれると。でも、なかなか友達というレベルにはなれないともいう。自分が大学生より年上なためか、自分の性格が内向的なためか、あるいは自分の日本語レベルがまだまだ不足しているためか、分からないと悩んでいた。

 まわりの人や世の中の役に立つ人間になりたいと彼女はよくメールに書いていた。日本にきて日本人と交流し、経験を積んで中国に戻って彼女がどんな仕事をするのかを注目している。再来年には結婚の予定とも書いていたが、生きた資本主義の社会を経験し、コンビニで働きながら大学で学ぶ彼女の未来が社会主義をめざす中国の未来とともに明るいものであってほしいと心から思う。
【2011/01/26 16:17 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
碁島のフエフキ

 デ・ニーロは愛犬。
  バックが地元の海岸で通称「碁島」(碁石ヶ浜)という。紀伊半島の西側の海はこのあたりを境にして海水の質が変わると、漁師の方に聞いたことがある。ここを境に串本方面に南下するほど透明度がます。車で3分ほどでこの碁島に着くが、よく夜釣りに通った時期がある。

 夜、大物をねらう。20センチほどのアジを丸ごと針にさして水深3メートルの底に投げ入れる。釣竿をピトンに固定して、あとは待つだけだ。「なんと気の長いはなし・・・」と思われるだろうが、それがそうでもないのだ。ネライはクエだが、クエは滅多に来ない。

 真っ暗な海で、伊勢海老、アナゴ、ウツボなどが交代でエサを食べにくる。ある夜、アジを投げ入れ竿を手に持っているうちに当たりがきた。ゴツンという衝撃が腕と体にきた。直後、竿がふわっと浮き、手ごたえが消えた。バラしたかあ、っと思ったその瞬間、強烈な引きが腕をひっ張った。それからはまるで格闘だった。まわりで夜釣りをしていた人たちがワイワイ言いながら集まってきた。
 
 10分、いや15分くらいの格闘の末に引き寄せた大物を岩場にあげた。「大っきなフエフキやなあ」、誰かが感嘆の声をあげた。測ってみると80センチ近くもあった。このフエフキダイはもちろんすぐに帰って刺身にしたが、あの味は忘れられない。
 最近は釣りに行っていない。碁島はすぐそこにあり、行けばまた大物と出会えるだろう。
【2011/01/25 18:39 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
野焼き

  いつの頃からの風習かは知らない。
 この季節は雨も少なく、つけた火が燃え広がるような打ってつけの北風が吹く。町内会の回覧板が年明け早々にやってきて、野焼きが行われる日程を知らせてくる。この日は一戸にひとりは参加してくださいとのこと。昔と違って田んぼのすぐ側に民家があるが、不思議なことに風にあおられ燃える火が移って火事になったという話はあまり聞かない。  

 消防署も総出で周辺から見守ってくれる。戸外で物を燃やさないのが昨今の常識になっていて、煙の立ち昇る光景などついぞ見られないが、この野焼きばかりは例外のようだ。
 枯れ草に火をつけるのは簡単だが、簡単でない。風にあおられて、つけた火が逆襲しやけどをする場合がある。だから、持ちやすい太さの生竹を切ってきて、節に穴を開け筒にして、それに灯油を入れてふたをする。片方の出口はタオルを詰めてそこに火をつけると、小さな炎が灯油のなくなるまで1時間ほどは燃えつづける。この「チャッカマン」はなかなか重宝する。

一体、なんのために野や土手を焼くのか? 一般に、野を焼くのは野の森林化を防ぐためという。わが国のような気候では、野は放置すればすぐに森林化するようだ。それを防ぎ、野を野として、土手を土手として維持するための作業なのだ。さらに、春先に出る若草にとって灰が肥やしになるし、野を焼くことで有害虫も消える。遠くから見ると、風に踊って燃える火と煙の様は壮観でさえある。
【2011/01/23 15:42 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
信号のない町
 
 この町には信号がない。
 いちばん奥の松根から国道42号へは普通に車を走らせて1時間はかかる。町中探してもコンビニなどもちろんない。そこに流れる川をそのまま町の名前にしているところが幾つかあるが、ここもそのひとつだ。古座川町。古座川は本流の古座川と支流の小川(こがわ)とが途中で合流するのだが、小川の上流にはダムがない。

 数えきれないほどここを訪ねている。はじめて訪ねたとき、その透明な川の水に驚いた。きれいだとは聞いていた。いたが、これほどだとは思っていなかった。「きれい」などという形容はあたらないのだ。透明そのものとでも言おうか、流れていることさえ分からない、それほど透きとおるような流れだ。きれいな川が多い南紀州にあっても、ここは屈指だ。 

 ある夏の盛り。人など立ち入らない山奥の上流の流れに入ってみた。途端、あまりの冷たさに川から飛び上がった。泳ぐのをあきらめ、その冷たい水を飲んだ。

 夜、満天の星の群れがある。人口の明かりがいっさいない山々のうえにまたたくこの星の群れに出遭ったら、きっと息をのむだろう。「これが星空かあー」と、浴びるように降りそそぐその見事さに言葉が出ないだろう。体験してみないと分からない感動の夜空がある。 古座川町の人口は減りつづけているという。
【2011/01/23 07:36 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
雪ふる高野山
 
 終着駅は極楽橋。
 ケーブルカーに乗りかえ、そこから上る。高野山には6・7回上ったことがある。ある雪のふる日、高野山大学を訪ねた帰りにとある喫茶店に入った。ホットコーヒーを注文し「寒いですねえー」と店の女性に声をかけると、「じゃ、これを入れて飲んでください」という。差し出されたのはブランデーだった。「ちょっと入れると温まりますよ」とコーヒーに注いでくれた。ほんの少しの心づかいに身もこころも温かくなった。

 高野山には修行僧が多い。どんな修行を積んで一人前の僧侶になるのかよくは知らないが、雪におおわれた白い世界に彼らのモノトーンの装いがとけこんでいる。よけいな色のない世界で、踏みしめるように歩いてゆく若い修行僧の後姿にしばらく見入ってしまった。
【2011/01/18 16:06 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
千本中立売
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 せんなか に行ってみようと思っていた。

 去年の秋、大学の同窓会が鴨川べりのとあるホテルで行われたが、その機会にぜひにでもと思っていた。だがしかし、足を伸ばす時間がなく果たせなかった。ことしの賀状には同窓会に参加した友人たちから「懐かしかった」との肉筆コメントがいくつも踊っていた。

 せんなか には下宿があった(地図の真ん中■のところ)。そこから、あるときは重単で、あるときは自転車でほうぼうに出かけたものだ。カウンターにいつも「赤旗」新聞を無造作に置いていた下宿近くの中華料理の店で、そこの親父さんがよく代金をまけてくれた。野菜炒めが安くてうまい店で、行けば野菜炒めを注文した。千本通りに面した喫茶店マリアも、まだそこのあるのなら訪ねてみたかった。あのハンバーグ焼きそばをもう一度食べてみたいと思っていた。

 懐かしい場所を訪ねることはできなかったが、ホテルへの道すがら、広小路あたりから河原町通りに、そして今出川通りへと足をはこんでみた。よく行った東山界隈にも行ってみたかったが、またいつか来ることもあるだろうと思いあきらめた。昼のニュースでは、きょうの京都は雪とのことだ。

 
【2011/01/16 14:52 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
猫くん
 
 
 猫である。 

 農家の生まれ育ちだからというわけでもないが、もの心ついた頃から家には猫と犬、それに牛が2頭、さらに鶏たちがいた。季節が来るといつもツバメが土間の天井柱に巣を作るので、彼らが自由に出入りできるようにと戸は開け放されたままだったから、猫も犬も、ときには鶏も自由に出入りしていた。ツバメの卵を目当てに大きなヘビが天井の柱をつたっていたのをよく目撃しては大騒ぎしたものだ。

 家の裏には里山がそびえ、谷からはいつも冷たい水が流れてきて、祖母や母はよくその清流の溜まりにスイカや野菜を入れていた。われわれ子どもたちはいつもその里山に入り、一つ一つの季節に遊び、楽しんだものだ。よくその時代時代に可愛がっていた愛犬を連れて山に入った。こんな時には愛猫はついて来ない。

 さて、写真の猫である。去年、たぶん近くの田んぼ脇の物置小屋かどこかで生まれたんだろう、家の庭にやってきたときはまだ小さな子猫だった。ひと目見て、洋猫の血が交じっているなと思った。顔から首にかけて長い毛並みが美しい。大きくなっても首まわりがモコモコしている。食事を与えているうちに家に居ついてしまった。オス、たぶん1歳くらいだ。この猫くんと友だちになって以来、犬も飼いたいなー、と思っている。


【2011/01/14 12:36 】 | 未選択 | 有り難いご意見(1) | トラックバック()
炭鉱の跡

 ここを通るといつも、かつての炭鉱で働いていた人々や家族の声が聞こえてきそうだ。

 熊野川町宮井(現新宮市)は、瀞峡から流れる北山川と熊野川の合流点であり、下流の志古からのジェット船が上り下りしている。この宮井周辺にはいくつもの炭鉱の跡があるのだ。和歌山県側に志古、松沢、明治などの炭鉱があり、三重県側に小船炭鉱もあった。

 およそ50年ほど前、これらの炭鉱を舞台に労働争議が起こり、労働者たちがストライキでたたかったことがあった。これらの争議はそのころ全国に広がっていた警職法や勤評に反対するたたかいなどとむすび、安保条約反対のたたかいに発展した。
 しかし、ほどなくしてアメリカのエネルギー支配の手が日本に伸び、石炭産業の斜陽化がつくられ国中で多くの炭鉱労働者が「合理化」の犠牲となり職を失っていった。

 和歌山県側から北山川をこえ三重県熊野市にすすむ道は、つづら折の蛇行をくり返す山道ではあるが、いまではほとんど舗装されている。そこを通るとき、いまはもう故人となったがそれらのたたかいに参加した幾人かの友人たちのことを思い出す。北山川の清流や山々の静かさを見ながら、その友人たちについ語りかけたくなるのである。


【2011/01/12 19:32 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
南紀州
 
 
  三重県熊野市紀和町にある集落である。

 北山川をはさんで和歌山県側からシャッターをきった。南紀州には写真のような風景はそこここにある。あまり人の手が入っていない雑木林も多く、豊かな自然の環境が残っている。いつの頃からか「熊野」という名が有名になり、さまざまにこの地のことが論じられている。それは、ときにいにしえの時代のことであり、ときにこの地方から出た著名な人々の名とともに語られたり、ときにその自然や環境の話題だったりする。

 それらはそれらで興味深いことかも知れない。が、そうした角度からではない、この地方の出来事や特徴をあくまでも個人的な視点から書いてみようと思っている。ですから個人のもっている偏りという制約はもちろん免れないし間違いもあると思う。気づかれたことがあれば指摘してください。

 この写真の近く(左奥)には「湯の口温泉」がある。秘境とまではいかないが山間のひなびた温泉でここを知る人々には人気がある。そのむかしの鉱山トロッコも観光用に走っている。あまり知られていないこんな場所にも埋もれた歴史があり、そのかみの人々の息づかいが聞こえてくるようでもある。そんなこともいくつか紹介してゆきたい。気楽に読んでいただければと思う。


【2011/01/11 16:43 】 | 未選択 | 有り難いご意見(1) | トラックバック()
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