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【2024/04/26 21:34 】 |
水車



  平井(古座川町)にある水車だ。

 南紀州は日本でも有数の多雨地帯。昔からそこここで水車がまわり粉曳きに使われていた。水の流れはたくさんあるんだから、このエネルギー利用すれば小水力発電ができる。もう、ダムは作るのは時代遅れだ。
 
 急峻な地形。小水力発電の場所はどこにでもある。農業用水なんかも水車を利用すれば発電ができるし、小さな発電所をたくさん増やすことでエネルギーの自給率を高めることもできるというものだ。
 
 水の流れ。これを水車でタービンをまわす運動エネルギーに変え、それで発電機をまわし、電気エネルギーに変えるだけだ。だから、大工さんと鍛冶屋さんと電気屋さんたちが忙しくなるけど、その人たちがいればできる。
 
 むかしは小さな発電所があちこちにあって、そこの集落の電気をまかなったりしていた。もちろん今はたくさんの電気を使う。 けど、100%自給はムリでも、半分以上の電気をそこで作ってそこで消費することができる。
 
 水力発電がかつては主力だった日本。 火力発電、その後の原子力発電がはびこってきた背景には、社会が重化学工業に偏重し水力発電だけでは電力がとても足りないということがあった。
 
 水力発電の地産地消は、だから同時に、農業などを切り捨てた、かつてのようないびつな国づくりの転換をも求めているのだ。 「脱原発」とはそういうことだ。



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【2011/08/13 15:57 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
湯の口のトロッコ


   三重県のいちばん端(はし)っこ、和歌山県との県境付近。
 
   この辺りは熊野のど真ん中だ。北山川の流れは、少なくなったとはいえ豊かな水量。湯の口温泉のこのトロッコも有名になった。始発の瀞流荘駅はけっこう立派な建物だ。駅舎のなかにはいろいろな写真の展示がある。
 
  温泉までの料金はおとな片道200円、こども100円。1日6便が行き交う。次の発車までには時間があるので、乗りたい方はダイヤを確かめて行ってほしい。距離はそう、約1キロ位だろうか。それをゆっくりと進んでゆくのだ。トンネルの中はひんやりと気持ちがいい。

 発車時刻だからといって、かっきりその時刻にスタートするとは限らない。アバウトなダイヤだ。 満員の客を乗せても人数はしれている。その昔、ここの炭鉱で使われていたトロッコだから1輌に数人なのだ。
 
 この湯の口温泉、温泉としてはそれほどメジャーじゃない。だが、好きな人はほんとに好きな温泉だという。 秘境といっても車で行けるんだからちとオーバーだが、熊野の山々に囲まれてたたずまいは秘境そのものだ。




【2011/08/10 07:45 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
” 夏は白浜 ”


  きょうの白良浜(しららはま)だ。

 この時期の空は、どこまでも青くて吸い込まれそうな色をしている。白良浜がもっともにぎわいを見せるのは8月10日の花火大会だろう。7月末にも花火大会があるが、8・10の大会にはかなわない。

 地元で暮らしていながらこの浜で泳いだ記憶は2回ほどで、もっぱら足を運んだのは臨海(りんかい)、藤島(ふじしま)、鴨居(かもい)、五島(ごしま)などの浜だった。遠浅の白良浜は、岩礁地帯で魚介類を物色したかった者にはもの足りなかった。

 神戸から彼女と来たという大学生の男性と少し喋った。
 ― なんで白浜へ?
 ― やっぱ、夏は白浜やから。
 ― 来て、どう?
 ― ことしで5回目。いつ来てもいい。
 
 臨海に足をのばしたが、かつてのような賑わいはなかった。盆が近いせいか白波が立ち、秋がすぐそこに迫っている気配。この白良浜も、盆が過ぎると一気に賑わいがなくなり秋が漂い、海はいっそう透明度をます。
 
【2011/08/08 19:14 】 | 未選択 | 有り難いご意見(1) | トラックバック()
桃山の桃

貴志川を渡って桃山町(現・紀ノ川市)に行き、道ばたのスーパーに寄ってみた。きっと「桃」を置いているだろうと考えたからだ。予想は的中した。400円で2個入りの桃を買った。ずっしりと手に重い。

古来、桃には邪気を追い払う力がある、と言われている。桃太郎はいうまでもなく桃から生まれた男の子だ。だから、生まれながらの正義の味方だ。3月3日の桃の節句は、桃の花が咲く頃に、桃の加護によって女の子の健やかな成長をと祈るのであろう。

話は飛ぶが、桃の剥(む)き方を知らない人が意外に多い。桃の割れ目に包丁を入れ、それをぐるーと一周させる。切り目の入った桃を両手でもって左右にねじると、パカっと種の部分から外れる。あとは好みの大きさに切ってからあの薄い皮をむけばいい。

蛇足だが、桃を冷蔵庫に入れるのはダメ。涼しいところに置いておき、食べる前に15分間ほど氷水で冷やすのがいい。面倒くさいけど、これが桃の味を楽しむコツなのでお試しあれ。


【2011/07/31 17:04 】 | 未選択 | 有り難いご意見(1) | トラックバック()
バイ


 大きいものは7~8センチあった。
 
これが「バイ」だ。夏が来ればこれが食べたくなる。学名は「マガキガイ」というらしいが、小さい頃から「バイ」と呼んでいる。数人の同級生と海に潜ってこれを獲り、岩場で焼いてみんなで食べた。この貝を食べたことがある人はご存知だろうが、これが実に美味なのだ。
 
小学から中学のころは、夏休みといえば海だった。ほかに行くところはなかった。麦藁帽子をかぶり自転車で向かったのは近くの海岸で、行けば日がな一日そこで過ごした。この岩礁地帯は春には「ガシラ」釣りの場であり、夏は泳ぎの場だった。いくども溺れそうになりながら泳ぎを覚えたところだ。
 
海に潜って獲るといっても水深2mからせいぜい3~4mで、それ以上は無理だった。あの頃に潜った岩場はもうすっかり環境が変わってしまった。きっと、潜ってもあの「バイ」はないだろう。しかし、42号線を走っていると、「ああ、ここに潜ったらバイがあるぞ」と思う場所が白浜以南にはいくらもある。
 
あまたある貝のなかでも、これほどうまい貝は他にはない。

【2011/07/25 18:33 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
夕立がきた


このあと夕立がきた。
 
 水路を流れる水の透明度は高い。期待して目をこらすと、やっぱり魚がいる。大きいのは10センチくらいはある。ということは、もっと大きいのが隠れているはずだ。動きの速さはフナに似ているが、断定はできない。南紀州一帯の用水路で生きている魚は少なくみても10数種類はある。
 
そんなことを考えながらジィーっと見入っているところに夕立がきたのだ。写真の正面に竹林がある。その向こうには川が流れていて、この水路の水はそこへ注いでいる。周辺に民家はほとんどない、静かな農村の風景だ。何のへんてつもない水田風景に郷愁をそそられるのは、DNAに刻みこまれている農民の血のせいか。
 
 夕立が稲穂を打ちつけながら通りすぎてゆく。遠くの空は真っ青なのにここは大粒の雨だ。やがて、車から降りてまた水路に見入った。群れをつくって素早く泳いでいる。タマでも持っていたらすくってみたい。どこかで「ショクウ」(ヒキガエル)の鳴き声がした。
 
【2011/07/19 11:52 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
個性的なダム


このダムは治水が専門だ。
 
昭和14年10月17日、未明から降りつづく雨は凄かったらしい。時間雨量102mm、1日の雨量421mmという集中豪雨で、流域に大きな被害が発生した。特に、田んぼや畑といった農地の被害が甚大だった。その苦い経験をもとに、この小匠ダムは「農地防災」を主目的として造られたという。

このダムは「穴あきダム」である。「穴あきダム」とはその名のとおり、ダムの下腹部に穴が開いているダムのこと。平常はまったく水を貯めず、ただ川が流れている状態だ。これをスルーするという、らしい。 別に「魚道」もあるから川に生息する生き物も自由に往来している。もちろんヘドロなどの土砂の堆積もない。
 
 よく出来ているなあと思ったのは、この「穴」から流れる水量の上限が決まっていて、それを上回る大量の水がダムに押し寄せる洪水時には、流入量の一部が放流される。残りがダムに貯水されてゆきダム湖の水位は上昇する。洪水の沈静化するにしたがってダムへの流入量は低下、それに伴い貯水量は減少し水位は低下、やがて元の通常の状態に戻っていく。

 県下のダムをいくつも見てきたが、これはなんとも個性的なダムだ。地元の人に聞くと、「春に来やんせ。そりゃ桜がきれいや」との返事だった。R42号から車で30分ほどのところにある。那智勝浦町にゆく機会があれば、ぜひ現地へ足を運び見られてはどうだろうか。
 
 

【2011/07/16 22:34 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
夏休み

 
  夏が来た。

 夏といえば夏休みだ。近くの川や海で一日中遊ぶのが、あの頃の仕事だった。飽きもせず、どうしてあんなに遊びに夢中になれたんだろう。それはともかく、あの気の遠くなるような、遊びに明け暮れた時間のなかで自然の営みや摂理というものを知ったように思う。

 今はなかなか見えないが、夜になれば決まって涼み台に寝転んで夜空を見上げた。星降る夜空に広がる天の川に吸いこまれそうになりながら、流れ星を数え、明日はどこで大きなフナを捕まえようかとそんなことばかりを考えていた。小川にはうじゃうじゃとフナがいたし、うなぎも面白いほど釣れた。

 海へ行けば「バイ」を獲ってはその場で焼いて食べたりした。ここでいう「バイ」とは方言名で、正確にはマガキ貝という。一般にいうバイ貝ではない。このマガキ貝だがそのあたりの岩礁の海にもぐれば獲れ、ご存知の方はよくお分かりかと思うが、あまたある貝のなかでも味は最高級だ。

 ことしの夏休み、紀伊半島のどの川、どの海岸で遊ぼうかと思いを巡らせている。いまにも夕立がやってきそうな、そんな夕暮れから暗くなるころにかけて、あの川の川口辺りで少なくなってしまった天然のうなぎを釣りあげたいと手ぐすねをひいている。


 
【2011/07/14 15:41 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
アジアの友人


  ペンフレンドだ。

 ペンパルともいうが、メールが主流の昨今はどっちもあまり使われなくなったことばだ。数年間、彼女からの音信が途絶えていたが、数枚の写真といっしょに懐かしい香りを運んでくれた。英語圏でない国の人々が使う英語には、文法にとらわれない表現がいっぱいあって、最初は慣れないが、やがて分かってくると面白い。

 彼女も、特に何かいわれたわけじゃないけど、こちらの英語の実力のなさをよく知ってくれている。彼女は東南アジアで生まれて暮らしている普通の労働者だが、頻繁にメールを交換していた数年前には実にたくさんの情報を送ってくれた。僕が知りたかったある作家の近況なども調べてくれたりもした。

 結婚して子どもも生まれたと、なんとも嬉しい知らせを入れてくれた。夫婦共働きの大変さもつづっていたが、ご両親が子どもの面倒を見てくれるので助かると、そんなことも書かていた。素直な性格で、どちらかといえば思慮深い彼女だ。

 ひとつだけ疑問がわいた。なんでこんなに化粧を濃くするのか、素顔とまるで違う。しかしまあ、考えてみれば日本でも結婚式での化粧は濃い。だけど、過ぎたるは・・・というではないか。
 そんなことを考えながら、彼女にお祝いのことばや夫君の印象について書いた。

【2011/07/13 09:58 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
平瀬の里


   大塔村。

 平瀬の里に行くには、そのむかしは道路もせまく時間がかかったが、いまは20~30分で行ける。それもあってか、最近は山歩きが目的で里まで車で来る人たちが増えた。一見してそれと分かる人たちをよく見かけるようになった。

 この山歩きの人たちはルートを実によく知っているのだが、ヒョンなことで道を尋ねられることがある。小さい頃から嫌というほど山を駆け巡って遊んだ身だが、山歩きのルートとなると知らない。都会からやって来て尋ねている彼らのほうがずっと詳しいことがよくあるから、笑ってしまう。

 一度、山を歩いて面白いですか? って聞いてみたことがある。ほんのしばらく黙って見つめられ、「ええ、いろいろ楽しいですよ」と、そのひとことが返されただけだった。きっと、説明してもムダだと思ったんだろう。

 それにしても悲しくなるような初夏の風景だ。時間がとまっているかのような錯覚をおこす。この山里に散在する民家の数も少なくなった。人がいないわけではないが、聞こえてくるのは近くを流れる谷川の水の声、それに吹きぬける風の音だけである。

 
 
 
【2011/06/26 15:38 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
小匠の里


  太田川だ。
 
 小糠雨(こぬかあめ)が降っている。小匠(こだくみ)への道は随分よくなっていた。もう10年はこの地に足を運んでいない。奥に入るにつれて対向する車にもめったに出合わなくなった。ときが止まっているかのような錯覚にさえ陥る辺りのたたずまいだ。
 
 車を停め、傍らを流れる太田川の透明度に嘆息した。古座川といい、この太田川といい、県内屈指の透明度を誇る河川だ。画素数の粗い携帯のカメラで撮ってもこのきれいさだ。いいカメラで撮ればもっと美しいものが撮れるだろう。
 
 小匠の里は色川に上る道から左にそれて進む、上流の小さな集落だ。雨がしょぼ降る午後、その静かさに圧倒され、悲しくさえなる。家々の数はどれくらいか、すぐに勘定できそうな数だ。小さな、むかしながらの雑貨屋さんが道端にある。
 
 空き地でなにやらやっていたおじさんが、「やあ」っていう感じで手をあげてくれた。見知らぬ者にこういうことをする、ここはまぎれもない正しい日本の田舎だ。すぐさま窓を開け、「こんちわ」って言ってぼくは手をあげて返した。
 
 


【2011/06/18 08:05 】 | 未選択 | 有り難いご意見(1) | トラックバック()
富田砥石(といし)のはなし


   かつての砥石山(といしやま)の跡だ。

   富田川河口の東西南北の村々(現・白浜町)にはいたるところでこの石が産出し、少し柔らかいために庭石などには不向きだったが、墓石としては古くから重宝がられてきた。この石が建築用や土木工事用として使われはじめたのは江戸時代中頃のことだ。
 
明治になり、鎌や包丁などを研(と)ぐのに富田砥石(とんだといし)がいいとの評判が広がるにつれ、関西一円に富田砥石が普及し、九州まで販路はのびた。
石が採れる山は、外から見るだけでは雑木が生い茂っている普通の山にすぎない。その山から石を採りだし、砥石工たちが製品を作りあげるまでには時間がかかる。 “荷はね” と呼ばれる男たちが、まず山の雑木を刈りあらけ、岩石の上に乗っている土を取り除くのである。
 
岩肌が見えてくると、こんどはノミをつかって岩に穴をあけ、火薬を詰めるための細長い筒を掘る。筒が出来れば、そこに火薬を入れて蓋をし、そこから導火線を引き発破をかける。こうして採りだされた石には、かならずその石に個有の目があり、年輪があるといわれた。が、それを識別する術は人ごっとには無理だったと、ある古老から聞いた。
 
 
大きな石の塊のなかには稀に丸い石の玉が混ざっていたりする。目や年輪を無視して石を割って砥石をつくっても、少しの衝撃で石が欠けたりしていい砥石にはならないそうだ。 
 製品の主力は直径180センチ厚さ20センチの丸いもので、多くは工業地帯で消費された。

 山から採りだされた角ばった石に砥石工がノミをふるい続け、丸みつけ、やがて真ん丸い砥石に仕上げてゆく。熟練の匠の技をもった人々、その技を受け継ぐ人ももういない。
 
 


【2011/06/16 13:21 】 | 未選択 | 有り難いご意見(1) | トラックバック()
新宮と弁慶

 
 紀伊田辺駅前に弁慶の像が建っている。

 待ち合わせの場所にもなっているが、そもそもなんで田辺駅に弁慶なのか? 弁慶なら新宮駅ではないのか。

 弁慶のはなしは何ぶんにも大昔のことだ。京都五条の橋の上・・・、だけど、五条の橋は弁慶の時代にはまだない。五条には「渡し舟」があっただけだ。

 「平家物語」では、弁慶は「紀州熊野新宮の別当湛増(べっとうたんぞう)の子」としている。別当というから権力者だ。新宮、本宮、那智の三大社を統括しており、その富はすごいものだった。

 「義経記(ぎけいき)」では、熊野にやって来た二位大納言の姫君を別当が無理やりわがものにした。屋敷に立派な産屋を建て、そこで弁慶が生まれたとある。「義経記」は小説には違いないが史実に忠実な作品であるから、多分、実際に近い話だろうと思う。

 だから弁慶なら新宮だと思うのだが、田辺では「弁慶祭り」もあり「弁慶踊り」もある。観光の「売り」になっているのだ。新宮ももっとがんばってほしい。新宮にはがんばってほしいことが他にもあるが、それはまたにする。



【2011/06/10 18:14 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
草蛙の雨にあひて・・・


  // 此山路に石屑多し。これを くづれ沓といふ。・・・此山の石 いと弱くかけやすくて 草蛙の雨にあひてくづれるようになればなりといふ  //   伊達千広(陸奥宗光の父)の「三つの山踏」のなかの一節だ。 古来、熊野の山々の岩は「草蛙の雨に」もくづれるほどに弱かった。

 //  熊野へ参らむと思へども 徒歩より参れば道遠し すぐれて山きびし 馬にて参らば苦行ならず 空より参らむ 羽とべ若王子 //  ( 梁塵秘抄 ) 
 だけど、熊野の山はさほど高くない。おそらく2000メートルを超える山はないと思う。では、なぜに「山きびし」なのか?

 高い山々の連なりを山脈という。だから紀伊半島の山々を「紀伊山脈」と呼ぶかといえば、そうは呼ばずに「紀伊山地」と呼ばれている。もちろん、果無山脈などと呼ばれる小さな山脈はいくつもある。そして、小さな山脈たちは連なって走らず、思い思いの方向に走っている。要するに、複雑な山々がたくさんあるのだ。だから昔から「熊野三千六百峰」などといわれる。

 「山きびし」とはなぜなのか? それは複雑な地形、傾斜のその角度からきているのだ。ゆるやかな傾斜の山は熊野では約1割ほどで、30度~40度以上の傾斜角度の山々が圧倒的に多い。40度の傾斜は半端じゃない。普通には歩けない。そのうえに岩が弱いのだから熊野のへ路は古くから苦行だったし、いまなおその山々は気軽には入れず神秘な魅力に彩られている。
 
 
【2011/06/09 21:54 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
あの頃の父と牛


 古い写真だ。

 麦藁(むぎわら)帽子をかぶっている農夫。牛からロープを伸ばして「すき」に結び、それを引かせて耕す。電信柱が向こうの方まで並んでいるのが見えるが、田んぼの真ん中に電柱を立てているくらいだから、時代が分かる写真だ。いまなら、こんな電柱の立て方はしない。
  田んぼのなかの農夫があの頃どこにでもいた父で、こちらから見ているのがどこにでもいた僕である。

 読者の方から、先に載せた写真の牛は東南アジア系だとの指摘があった。ピンポン~だ。牛が「すき」を引いて田んぼを耕す写真など、いまの日本にはもうない。それに、実物の牛を直接目にする人も稀である。だけど、あの頃の牛を知ってる人には、やっぱり見破られてしまった。

 けど待てよ。もしかして、こんな風景をとどめている田舎がどこかにあるかも知れないと、ふと想像してみた。四国のどこかか九州のどこかか、もっと南の方に行けば・・・。
 もしあれば、ぜひ現地を訪ねて見てみたいと思う・・・。
 
 
【2011/06/09 16:07 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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