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【2024/04/19 12:28 】 |
梅雨がきた


  梅雨がきた。
 
 わが家(えー)では、田植えは親戚から応援がやって来て、にぎやかなものだった。腰を折って手で苗を植えるあの労働からはできるだけ逃げたかった。どうしたかというと、横一列に並んで植えている大人たちの後に、あぜ道から苗の束を投げ込み補給する役にまわるのだ。が、近場はいいが遠くに投げるのが、これはこれで子どもにはなかなか難しかった。
 
田植えは、古くから大勢の男女が田んぼに入り、思い思いに苗を植えるという「見込み植え」だったが、田んぼの両端から一定間隔に印をつけた綱を引っぱり、その印にそって植える「正条植え」に変わり、それで草とりも一気に早くなった。 けど、“田植えの機械でもあったらなあ…”と、大人たちは夢物語に笑いあっていた。

  耕運機はだから、それこそ弥生時代からの田植えにとって「革命」だった。ニッポンのすぐれた技術力が凝縮されたハイテク機械の誕生だ。田植えは1~2日で終わるようになって、あの重労働から国中の農家が解放された。僕の世代は多分、牛が田んぼを耕している風景を知る最後の世代だろう。

 生まれたときから家には牛小屋があり、まるで家族の一員のように牛がいた。鼻緒から引っ張った綱を父に代わって持たせてもらい、まだ年端もいかぬ男の子が田んぼまでの道のりをキボキボしながら牛を引いてゆく。それがどれほどスリリングだったことか。その牛を、もう見かけることもなくなった。
 

 
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【2011/06/02 11:32 】 | 未選択 | 有り難いご意見(2) | トラックバック()
方言の味

  先に「熊野弁」を書いた。
 
 が、紀伊半島の方言は土地土地で細かく分かれていて、コテコテの方言を使われるとさっぱり分からないことがよくある。
 
 「今日わは何曜日なよ?」「今日わは水曜日や」- この言い方は西牟婁あたりの独特なもので、若い人は使わない。普通は「今日は何曜日?」だ。
湾内に迷い込んできたクジラを見て、「やにこい大きいなあ」と中学生がいうのを耳にした。「やにこい」は「ものすごい」という意味だが、別に「虚弱な」「病弱な」という意味でも使う。「あの人、やにこかったさかなあ」などと。
 
 「つむ」ということばも県外では通じない。公衆電話が使用中だったので、「電話つんだったわ」と他県の友人にいうとけげんな顔をされた。「高速、つんだあるわ」―これは混雑しているということ。
「〇〇ちゃん、ある?」「ううん、ないでえ」―これもよく引き合いに出される熊野弁だが、どこでも使われているわけではなく、同じ南紀州のなかでも使わないところもある。
 
紀州の人は「ざじずぜぞ」と「だぢづでど」の区別がつかないといわれる。だけど、白浜や上富田あたりでは区別して発音する人も多いから、すべての土地でそうなのではない。
    「でんだいこぼいたさか、れいどうこの上のどうきん取ってだ」-とまあ、年配の方ならこういうふうに言う。ぼくはこれでいいんじゃないかと思う。なんとも味があるではないか。
 
ただ、パソコンに「どうきん」と入力して「雑巾」と変換しないと怒っても仕方がない。(写真は串本)

【2011/05/25 16:35 】 | 未選択 | 有り難いご意見(1) | トラックバック()
熊野弁


 熊野弁には敬語がない。
 
 大雑把にいうと、年上に年下が、上司に部下が敬語をつかわない、そういう珍しい土地柄だ。この熊野弁とよく似た地方が土佐だ。土佐弁は熊野弁以上に世間によく知られている。「ほんじゃあきに、おんしゃあは・・・」と土佐弁はいい、「ほやさかいに、おまいは・・・」と熊野弁でいう。
 
 言語学の上からも、熊野では古くから上下関係のない、いわば平等の思想がある貴重な言語だというのである。あの司馬遼太郎は「紀州の方言には敬語がない」と書いて「平等の思想」があったと力説している。そうであるから紀州や土佐では自由民権運動が起こるべくして起こったんだ、とまあ独特の論を展開する。が、この司馬の説は当たらずとも遠からずだと思う。
 
 だけど、敬語を使わない、使えないというこの特徴ゆえに、ひとたび他県に出たときに熊野人は人知れず苦労する。これは熊野出身の多くの人々が、他県に出て会話で等しく体験することではないだろうか。もういまでは全国共通の義務教育があり、熊野弁も関西エリアのことばとして認知されているのだが、それでもなお苦労するのである。

 以前、このブログで 「あり おり はべり いまそかり」と書いたことがあるが、「~してはった。~してはる」などと京都あたりの敬語表現を使う人をときどき見かける。この言いまわしは、その人が大阪や京都に出ていかに会話で苦労したかの証だと思って、まず間違いない。
 
 
 
【2011/05/24 12:45 】 | 未選択 | 有り難いご意見(1) | トラックバック()
熊野川

  熊野川である。
 
 311号線を南下しながら、なんで和歌山と三重の県境をこの熊野川で引いたんだろうかと、ふと思った。明治維新のあと、それまでの藩が廃止されて県になったと教えられたが、なぜ和歌山と三重の境目が熊野川になったのかは、どの先生も教えてくれなかった。地元のことなのに、誰も教えてくれなかったなあ・・・
 
 明治の半ばに和歌山県で初めてのキリスト教会が新宮市に建てられた。新宮というところは、木材の取引など江戸との往来が県下でいちばん頻繁な土地柄だった。それに新宮藩の水野家は江戸家老として江戸に出向いていたし、キリスト教に限らず新しいものが入ってきやすかったんだろう。
 
 大石余平が新宮のキリスト教の中心だったから、弟の大石誠之助、余平の長男の西村伊作などもその影響を受けて育った。余平はというと、妹が大阪のキリスト教関係の学校に行った関係で、この妹を通じてキリスト教に近づいたといわれている。新宮に社会主義の思想が入ってきたのもこうした開明的な風土と無縁ではないだろう。
 
 もう100年以上も前の話だ。余平や誠之助や伊作たちはこの熊野川の流れを上ったり下ったりしながら流域の人々に理想を語りかけたのだろうと、そんなことを想いながら春の陽に映(は)えてキラキラ光る川面をながめた。
 
 

【2011/05/18 11:28 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
母校を訪ねて


母校の熊野高校を訪ねた。
 
 卒業してから初めての訪問だ。同窓の名簿を確認するための訪問だったが、そこでなんとも驚くことがあった。駐車場から職員室まで歩いてゆく間、すれ違った生徒が「こんにちは」と挨拶してくれた。丁寧な生徒がいるんだな、とまあそれくらいに考えながら校舎に入った。
 
 するとどうだろう、行き交う生徒のほとんどが前からも、横からも、後ろからも「こんにちは」「こんにちは」と声をかけてくるではないか。それに応えて、こちらも歩きながら「こんにちは」を連発することになった。挨拶を返しながら奇妙な気分になった。
 
 こんなに礼儀正しい人々を一般の世間では見かけることはない。学校という限られた空間だからできることだろう。それにしてもだ、小学校から大学までの自分をふり返って、学校のなかでこんな挨拶をした記憶がない。
 
 大人でも子どもでも礼儀正しいのはいいことだ。だけど、校外でみんながこんな挨拶をしているとは思えない。判で押したように連発される挨拶に、かえって違和感を覚えた。いったい、ここまで子どもたちを管理する必要があるんだろうか。
 
校庭に緑の多いことで知られる熊野高校。新緑の香りに満ちた校庭を歩きながら、自由に過ごした遠い日を思った。

【2011/05/14 18:48 】 | 未選択 | 有り難いご意見(1) | トラックバック()
禁煙から3年


  日に70本のタバコがどうしても必要だった。
 
 が、禁煙してはやいもので3年になろうとしている。毎月31.500円が文字通りケムリになっていた計算になる。3年だから1.134.000円も節約したことになる。それがそっくり手元に残っているかどうかはともかく、すごいことだとわれながら思う。
 
 タバコ漬けになっていた体質がいまではもうすっかり改善された。
  目立った変化を列挙してみると、くすみがとれて肌が綺麗になった、頭髪がグングン増えてきた、坂道を歩いても動悸や息切れがなくなった、手足の先が冬でも冷たくならない、胃腸が丈夫になった、風邪を引かなくなった、扁桃腺が腫れなくなった、耳鳴りが改善した・・・
 
 禁煙パッチのお陰でやめられたんだが、イメージトレーニングも役に立った。タバコなど知らずにスポーツに打ち込んでいた高校生の自分の姿をイメージして、「あの頃」の身体をとり戻そうと思い描いてがんばった。「あの頃」に戻るんだと、自分を励ましながら禁煙道を進んだ。
 
 お前は意思の強い人間かと問われたら、そんな人間でないことは自分が一分かっている。禁煙しようと思ってから6年ほどの間は失敗をくり返した。意志薄弱だなと、どれほど悩んだことだろう。あきらめずにチャレンジを続けたこと、それが秘訣だった。
 
 
  

【2011/05/10 16:37 】 | 未選択 | 有り難いご意見(1) | トラックバック()
龍神村から十津川村へ


  南紀州を東西に横切って走る路は3つある。

 上から、国道425(御坊市から尾鷲市)、県道735(龍神村から十津川村)、それに国道311(上富田町から尾鷲市)の3つで、ほぼ併走する格好だ。一番走りやすいのは国道311。国道425と県道735はともに夜は走れないような悪路だ。舗装されているとはいえ、龍神村から十津川村への区間は急峻な山肌にへばりつく路で、昼間でも怖い。

 過日、龍神村から十津川村にいたる県道735を走ってみた。とにかく、行き交う車がまったくない。聞こえるのは風の音と谷川の流れ、それにうぐいすの鳴き声だけだ。右に渓谷を眺めながら進むが、道は狭くガードレールのない区間もそこらじゅうにある。落石も多い。極めつけが『転落死亡事故多発区間』の看板。

 ごくたまに山にへばりつくように民家が数軒ある。完全な陸の孤島という印象だ。ふと、路ばたで京都ナンバーの重単が2台休んでいた。はじめて人と出会ったわけだ。不思議なものでこんなときはまったくの他人同士が声をかけあいたくなる。車を停めると向こうから声をかけてきた。大学生とのことだが2人ともやけにイケメンの好青年だ。奈良方面にゆくとのこと。

 2時間ほど走って十津川温泉に出たが、その間に出会った車は3台だった。いにしえの頃、熊野詣には何ヶ月もの日数を費やしたという。『蟻の熊野詣』といわれたらしいが、都の人々を魅了した熊野の地はいまも山深く神秘に満ちている。


【2011/05/05 14:35 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
熊野とは

  熊野とは、いったいどこからどこまでだろう。
 
 三重県とか和歌山県とかいうように正確な線は引けない。しかしまあ、三重県の南牟婁と北牟婁、和歌山県の西牟婁と東牟婁あたりがそれにあたる地域だろう。ごく大づかみにいうと田辺市から尾鷲市あたりまでを熊野と呼んでいいと思われる。
 
 もう少し詳しくいうと、大峰山脈の南側は熊野川水系だから十津川村から下北山村、上北山村も熊野に含まれるだろう。十津川村には玉置山があり「熊野三山の奥院」と呼ばれる玉置神社がある。
 
 牟婁とは「室」のことで、周りを山で囲まれた地形をさす。熊野とは「隈」のことで、奥の方の野だ。だから、思うに熊野とは都から見て「奥まった野」とでも呼ぶべきところだったんだろう。多分、「牟婁」も「熊野」も同じ意味合いをもった別の呼び名というべきか。
 
 このブログのタイトルは「南紀州」だが、これとてはっきりした線は引けない。熊野と呼ばれている地方とほぼ重なるだろう。ただ、熊野と違って呼び名としてはずっと後世のもので、明るいイメージがあるように勝手に思っている。
 
 天づたふ日の昏れゆけば わたの原 蒼茫として深き風吹く
 山めぐり 二日人見ず あるくまの蟻の孔に ひた見入りつつ    
 (釈 迢空)

【2011/05/02 20:28 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
平塚 明(はる)


  平塚 明(はる)。
 
 明治時代。裕福な家庭に生まれ、成績もよく負けん気の強い少女は、長ずるにつれて多感な女性になっていった。保守的な父親のもとで、それへの反発からか彼女のこの性質はさらに強化されていったのだろう。
 
 「塩原事件」は世に有名だが、それより以前の「接吻事件」のほうが面白い。女子大を出た彼女は禅の修業をつづけていた。通っていた寺の若い僧に、明は衝動的に接吻をしてしまう。いまの世なら珍しくもないが、明治時代のことだ。若い僧は明のこの行為に身も世もなく舞い上がってしまったという。
 
 この「接吻事件」で見せた明の人間性は、次の「塩原事件」でさらに踏み込んだ姿をとる。妻子ある作家・森田草平との逃避行から情死未遂がそれだ。この事件は大スキャンダルとなり、森田の師であった夏目漱石が乗り出し二人を結婚させ、森田に男としての「責任」をとらせようとした。
 
 が、明はこれを拒否。なぜ結婚なのか。自分でしたことの責任くらい自分でとる。明は森田に別れを告げる。その後、筆名を「雷鳥」とした明はさまざまな試行錯誤をくり返すが、この戦前の若き日の明の試行錯誤は戦後の活動で花ひらく。
 
 この5月で明が亡くなって40年になる。 「元始、女性は太陽であった」 - 明の思想はいまも生きつづけている。
 
 

【2011/05/01 15:10 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
イガミ

  イガミだ。
 
  小さい頃からこの魚をよく食べた。親父が自転車で釣りに出かけ、戻ってきたときには大抵は数匹のイガミがぼっつり篭に入っていた。特有の大きなウロコを剥ぎ、はらわたを開き適当な大きさで輪切りにする親父の横で、色んなことを聞きながら飽きもせずじっと眺めていたものだ。
 
イガミは釣りやすい魚だ。それに美味だ。刺身もいいが、イガミはやはり煮つけがうまい。煮つけると白身の肉が少し反り返り、独特の香ばしい匂いがあり、食べると少し甘い。真っ白な目の玉も必ず食べた。イズスミのすき焼きにはとても及ぶものではないが、地磯で釣れる魚では上等な部類だろう。
 
 長男が小学校にあがった頃、釣ざおを持たせ、エサをつけて海中に放り投げて数秒後にアタリがきた。両手で釣ざおを持っていた長男は「ウオー」と声にならない声を発した。見るとジリジリと引っ張られている。とっさに手助けして釣りあげると40cmあった。長男が喚声をあげたのはいうまでもない。
 
何でもエサになるが、夏場は主にエビやカニで冬場は海藻類だろう。釣りに詳しくなくても釣れるし、調理も難しくない。酒、みりん、醤油で少し時間をかけてアクを取りながら煮込む、それだけでいい。いまだ食べたことがないという人がいたら、騙されたと思って試してみるといい。
 
 
 
【2011/04/28 10:47 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
どこまでも高い空の鳩


  少年の頃。
 
 友だちに誘われてレース鳩を飼うようになった。レース鳩はお寺などにいる鳩とは少し違う。というか、見た目は素人目にはほとんど変わらないが、飛んでいる姿がまるで違う。何がって、スピードが違うのだ。
 
 いま思えば、どうしてあんなに夢中になったのか分からないが、一組の夫婦の鳩をもらい、最初は小さな鳩舎(きゅうしゃ)を作り、数が増えるにつれ大きなものを作った。一番多いときには30羽近く飼っていた。一日に2回、朝夕に外に出し飛翔させた。
 
 最初は雄雌の区別もつかなかったし、ましてやどれがいいレース鳩でどれが良くない鳩なのかの見極めなどできる筈もなかった。鳩との日々の付き合いで、数ヶ月もすると色んなことが分かってきたし、彼らとの意思疎通もできるようになってくるから不思議だ。
 
 鳩舎で卵を産み、雛になり、成長してゆく姿をいく度も見た。レース鳩は飛翔の速度を競う。たとえば500キロ離れた地点から飛ばし、帰って来るまでの時間で速さを割り出す。個体によって速度は違うが、普通は平均時速70キロは下らないだろう。
 
 と、まあ語ればきりがない。群れをなしてはるか上空を飛翔する鳩たちをよく見上げていた。
  あの頃は空がどこまでもどこまでも高かった。


【2011/04/26 16:40 】 | 未選択 | 有り難いご意見(1) | トラックバック()
なまずの蒲焼


なまずは初夏の頃が一番いい。

夏が近づいている静かな夕暮れがよかった。近所の小川や池でよく釣った。土手に腰を下ろしていると、そのうちに「ゴホッ」という音が聞こえる。 「ナマズやっ!」
 
釣り糸を垂れれば、あの頃はよく釣れた。エサのあるときはエサで、ないときはルアーを投げ入れてたぐり寄せ、水音と波紋を立てる。たまに少し止めて様子をみる。追いかけて来ているかも知れない。この止めたときに喰ってくる。

 次の瞬間、「ガボッ、ガボッ」という音を立てて水中に消える。慌てずに、落ちついて合
わせないとバレる。難しい釣りじゃない。天然うなぎも大好物だが、大人になってなまずも好きになった。なまずはサラッとして味がしつこくない。

 まなずを食べたことがない人に話すと、たいてい半信半疑の顔をする。「騙されたと思おて食べてみ」と言ってやる。「こんなに美味しい魚を知らなかったとは・・・」と、みんなきっと思う筈だ。
 
 
 
【2011/04/24 18:16 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
野生動物

 
  日本カモシカだ。
 
 今日、熊野川町(現新宮市)の山道を走っていたときだ。ゆるやかなカーブを曲がったら、目の前の道路脇にいた。10数メートル離れていたが、すぐに車を停めシャッターを押した。焦っていたのでピンボケだ。(ああ、オートフォーカスがほしい) しばらくの間、じっとこっちを見つめたまま動かなかった。
 
 カモシカは崖を好むというが本当だと思った。このガードレールの右下は約30メートルのほぼ垂直の崖と谷川だ。カモシカが去ってから下を覗き込んだが、いったいこの垂直の崖をどうやって登ったり降りたりするのか? 
 
 道路脇の草の新芽を食(は)んでいたようだ。姿からしてまだ若い。カモシカはほとんど群れをつくらずに暮らしているらしい。子どもカモシカは少し大きくなるまでは母親と一緒だという。だとすると、近くに母親がいたのかも知れない。
 
 
 それにしてもだ、ここ数年、こうして野生の生き物との出会いがなんと多いことか。この広大な紀伊半島のなかに、いったいどれほどの生き物が生息しているのだろうかと思う。まだ出会ったことがないが、こうして走っていると、いつか熊にも出逢うような気がしてきた。そのときにシャッターを押せるかどうか・・・。

【2011/04/20 17:57 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
もしやいまでも

 
 蚊取りヤンマだ。
 
 最近はトンと見かけなくなった。数年前のある夕方、飛んでいるのを見て思わず 「蚊取りやっ」 と叫んでしまった。が、このトンボ、それは動きが速い。全国どこにでもあるトンボらしいが、数はウンと滅っているようだ。
 
 かつて、夏の夕暮れともなると庭には蚊が飛び散らっていた。それを捕食しに現われるのがこの「蚊取りヤンマ」だ。大きくてけっこう姿が美しい。年端も行かない子どもが捕ろうとしてもなかなか捕れなかったことを覚えている。少年の頃には竹箒(たけぼうき)を使って捕ったものだ。
 
 いま、夏の夕暮れになっても蚊がいない。いや、いないわけじゃないが、昔のようにワンワンワンワンと鳴いて飛んでいるほどにはいない。エサのないところに「蚊取りヤンマ」は現われない。薄暗くなった農家の庭先に、群れをなして飛びかうあの黒っぽい大きなトンボはいったい何処へ行ったのか。
 
 好物の蚊がいっぱい浮遊している夕暮れの湿地帯で、もしやいまでも無数の「蚊取りヤンマ」が飛び散らい蚊を捕食しているのだろうか・・・


【2011/04/19 12:01 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
樫の木


昔はこんなことなかった。
 
 何の話かって? 草が生えてきたので鎌で刈っていたら、柄がポキっと折れてしまったのだ。鎌や鍬(くわ)や斧(おの)の柄には普通は樫の木を使ったものだ。とにかく樫の木は堅いし腐りにくいし、だから長持ちもする。
 
 少年のころ、よく自宅の裏山に入って真っ直ぐに伸びた手ごろな太さの樫の木で木剣を作り、握る部分には細いロープを巻き宮本武蔵よろしく辺りを駆け巡ったりした。まあ、それはともかく、樫の木を使うときにはコツがある。
 
 親父から教わったことだけど、幹に陽の当たる側を「あて」という。逆に陰になる側を「まみ」という。もし、知らずに「まみ」の側を鍬や鎌の柄に使ったら、日が経つにつれて乾燥し反(そ)ってくるのだ。
 
 思いたって近くの雑木林に入ってみた。 ん? ない! 昔あれほどあった樫の木がないのだ。「なんてよお・・・」と思わずつぶやきながら辺りを探してみた。あるにはあったんだがやせている。まあ、鎌の柄にするんだから細くていい。使えそうなのを2本作った。
 
 第一次産業が衰退してかれこれ40年。ものみな変わってしまった。福島第一原発近くに住み遠くへ避難している住民が、「江戸時代、明治時代に戻ってもいい。原発なんか要らない。家族とふるさとで暮らせればいい」と涙するのをテレビで見た。この国の政治の貧困をあらためて思った。
 
 

【2011/04/18 10:28 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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