
かつての砥石山(といしやま)の跡だ。
富田川河口の東西南北の村々(現・白浜町)にはいたるところでこの石が産出し、少し柔らかいために庭石などには不向きだったが、墓石としては古くから重宝がられてきた。この石が建築用や土木工事用として使われはじめたのは江戸時代中頃のことだ。
明治になり、鎌や包丁などを研(と)ぐのに富田砥石(とんだといし)がいいとの評判が広がるにつれ、関西一円に富田砥石が普及し、九州まで販路はのびた。
石が採れる山は、外から見るだけでは雑木が生い茂っている普通の山にすぎない。その山から石を採りだし、砥石工たちが製品を作りあげるまでには時間がかかる。 “荷はね” と呼ばれる男たちが、まず山の雑木を刈りあらけ、岩石の上に乗っている土を取り除くのである。
岩肌が見えてくると、こんどはノミをつかって岩に穴をあけ、火薬を詰めるための細長い筒を掘る。筒が出来れば、そこに火薬を入れて蓋をし、そこから導火線を引き発破をかける。こうして採りだされた石には、かならずその石に個有の目があり、年輪があるといわれた。が、それを識別する術は人ごっとには無理だったと、ある古老から聞いた。
大きな石の塊のなかには稀に丸い石の玉が混ざっていたりする。目や年輪を無視して石を割って砥石をつくっても、少しの衝撃で石が欠けたりしていい砥石にはならないそうだ。
製品の主力は直径180センチ厚さ20センチの丸いもので、多くは工業地帯で消費された。
山から採りだされた角ばった石に砥石工がノミをふるい続け、丸みつけ、やがて真ん丸い砥石に仕上げてゆく。熟練の匠の技をもった人々、その技を受け継ぐ人ももういない。